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戦争や戦時中の暮らしの事

0 名前:匿名さん:2023/08/10 14:19
私(現在52歳)は子どもだった頃に親戚の大叔父や大叔母などから戦争の事だったり戦時中の暮らしの事を折々に聞かせてもらう機会がありました。

特に大叔父は実際に戦時中、南方に召集されて流れ弾に当たり目を負傷し隻眼となりました。大叔父にしてみれば辛い出来事であったのに後世に伝えなければならないと言った思いからか
私や兄に語って聞かせてくれました。

大叔母は何度も焼夷弾が雨のように降ってくる中を幼い伯父を背負い防空壕目掛けて走って逃げ回ったと。

毎年終戦記念日が近くなると大叔父や大叔母が聞かせてくれた
話を思い出します。そして二度と大叔父や大叔母が体験した出来事があってはいけないと思います。

こちらの皆さんは私よりもお若い方が多いかと思いますが
祖父母様やご親戚のおじ様などから戦争の話などを聞く機会はありますか?
1 名前:匿名さん:2023/08/10 14:21
父は疎開、母は当時幼児だから
戦争の話は聞かないなあ
2 名前:匿名さん:2023/08/10 14:27
父も母も戦後生まれ。
映画で見るしかない。
3 名前:匿名さん:2023/08/10 14:31
父はすでに疎開していたのと幼児だったので
あまり記憶はないみたい。
ただ大空襲の日、街の方がお昼のように明るかったそうです。

母は戦後生まれ。

戦時中の話は学校の先生から聞いた話が中心です。
4 名前:匿名さん:2023/08/10 14:33
>>0
祖父母は話はされないの?
5 名前:匿名さん:2023/08/10 14:34
母(87)は戦争の話はあまりしません。
母の兄弟が戦死しています。
空襲は隣の町がやられています。
この時期の戦争ドラマも記憶が蘇るのか嫌がって見ません。

父(88)も戦争の話はしません。
2人とも子供~青年期の貧しかった話はします。
6 名前:匿名さん:2023/08/10 14:39
>>5
ぬし?
7 名前:匿名さん:2023/08/10 14:45
>>4
祖父母は私が生まれるずっと前に父方母方共に逝去しています。
8 名前:匿名さん:2023/08/10 14:45
大叔父、大叔母ってどこで会うの?!
あったことない
9 名前:匿名さん:2023/08/10 14:47
>>7
ぬし?ぬしって名前入れて
10 名前::2023/08/10 14:49
>>8
うちは親戚付き合いが濃くてですね、祖父母が早くに亡くなっている私や兄にとっては大叔父や大叔母が祖父母がわりに
あれこれ良くしてもらいました。
11 名前::2023/08/10 14:49
>>9
7番は主です。
12 名前:匿名さん:2023/08/10 14:56
私45歳。
直接話を聞いたことはないですが、
父方の祖父がルソン島沖で戦死し、
祖母は父を妊娠中に満州からかえってきた。
という話を父(79歳)から聞きました。

母方の祖父母は聞いても答えてくれませんでした。
13 名前:匿名さん:2023/08/10 15:00
58才だけど、戦争時父母は幼児だし長男長女だったので、祖父が戦争いったけど30年異常気象前に亡くなってるしあまり話聞かなかった。

貴重な話聞けてよかったね。
14 名前:匿名さん:2023/08/10 15:04
>>13
異常気象じゃなくて笑、以上前
15 名前:匿名さん:2023/08/10 15:08
別に聞きたくないです
16 名前:匿名さん:2023/08/10 15:08
父方の祖父が、戦争から帰って来た時から、戦時中の話を家族に絶対にしない人だったそうです。
普通に生活をしていても嫌な事をふと思い出して、つらそうにしていたそうです。

そんな話を父から聞いていたので、母方の祖父母にも、こちらから戦争の話を聞く事はしませんでした。

戦争は、言葉にするのもつらい体験だという事は伝わりました。
17 名前:匿名さん:2023/08/10 15:12
ちょっとだけね。
船に乗せられて、外が見えない状態で移動して、なんか暑くなってきたなぁと思ったら、聞いていたのと全然違う南の島?だったとか。

パイロットにさせられて、もう少しで特攻させられるところで戦争が終わったとか。

出征の前夜、1人黙って自分の赤ちゃんを抱いて声をころして泣いていたとか。

今は亡きうちの祖父。
ロシアにも行かされて苦労したらしいけれど、そのことは言わなかった。
18 名前:匿名さん:2023/08/10 15:16
祖父母に聞けば少し話してくれる程度。
うちは父母は戦後生まれ。
19 名前:匿名さん:2023/08/10 15:35
一緒に暮らしていた祖母は戦争で弟を2人亡くしていて
関東大震災で兄と姉を亡くしたらしいです。
祖母が亡くなった後に父から聞きました。
だからなのか、戦争の話や大震災の話は
聞いてもあまり話したがらなかった気がします。
20 名前:匿名さん:2023/08/10 15:52
私の母は少し話してくれたことがある。
兄が2人徴兵されて出征する時、もう2度と会えない気がして泣いてしがみついて行かないでってお願いしたらしい。
母は終戦時7歳だったそう。
勉強が得意だったお兄さんは、船と一緒に沈み、運動が得意だったお兄さんは、泳いで陸地まで辿り着いて生き延びたそう。
21 名前:匿名さん:2023/08/10 15:58
父方の祖父と父の弟(叔父)が被爆。
祖父は終戦後半年ほどで死亡。
叔父は陰になっているところにいたせいか
見た目は普通。大丈夫だったのか?と思いつつ
大人になったが、やはり被爆していたので、
40を過ぎてから、いろいろな症状に悩まされ、
55で亡くなった。
小学校1年の夏休み、お墓参りをかねて、泊めてもらったとき
夜、被爆の話を聞いた。
朝、母曰く「うなされていたわよ」って。
夢で見たんだよ・・・。叔父の話した話が映像になって。
22 名前:匿名さん:2023/08/10 15:59
>>18
戦後生まれといえど、混乱期だったよね
23 名前:匿名さん:2023/08/10 16:09
私は父が大正15年生まれで終戦ときは19歳でしたが、兵士として九州地方まで行き、終戦を迎えたそうです。帰りは広島を通り、悲惨な状況を目の当たりにしたそうです。
地域の戦争体験の絵画を見る機会があり、父の絵を初めて見ました。
話はあまり聞いたことがありませんでしたが、絵を見て衝撃を受けました。
地元もB 29が焼夷弾を雨の様に降らし、多くの方が亡くなりました。
母が女学生だったのですが、戦時中の事を書いた文集を30年前に読んで、自分達はなんて幸せなんだろうと思った記憶があります。
24 名前:18:2023/08/10 16:20
>>22
ど田舎だからどうだろう。戦禍もなかった地域。
モノはなかったって言ってたけど。

父はおやつは自分で作ったと自慢する。
芋とかふかして食べてたから今は食べたくないってよく言ってる。

両親の青春はなんとなくひよっこの実家の世界みたいなイメージ。
25 名前:匿名さん:2023/08/10 16:33
都内から親戚が疎開に来るような田舎だけど
空襲警報もあって防空壕もあったって
ご飯が灰色に見えるほど麦が入ってたらしいが
都心に比べたら食べるものがある方だよね
祖父は近衛兵に行ったとか聞いた
26 名前:匿名さん:2023/08/10 16:37
祖父が中国に出兵していたときいたので、私が中学のころに、軽い気持ちで聞いてみたの。
そしたら祖父は話さなかった。
涙ながして、戦争はだめだ、しか言わなかった。
27 名前:匿名さん:2023/08/10 16:44
戦争の話、しょっちゅう聞いたし55歳なので割りと戦争は身近な話だった。
繁華街行けば破れた軍服着て片手片脚の兵隊さんが匍匐前進で空き缶を手で突きながらお金を乞うのもあった。

お酒の席で親類のおじさんが戦友歌ってたし、ドラマは戦争で死んだ友達の奥さんが好きだけど生き残った自分はこれでいいのかと苦悩する内容のものもあったし、市原悦子の岸壁の母のドラマ出てたのもリアルタイムで見てた。

お好み焼きやたこ焼きのお店も戦争未亡人がやってた。
原爆資料館の近くに住んでいたから平和公園の隅々で遊んでいた。語り部養成しなくても原爆の経験なくても自分は何通りかの語り部できる。
28 名前:匿名さん:2023/08/10 18:08
親戚じゃないけと石原慎太郎の話が割と心に残ってる。
B29?焼夷弾降らせて上空を去るアメリカ軍の飛行機、
見上げてみたら、飛行機の胴体?下の部分にミッキーマウスやプレイガールみたいな絵が描かれあって、それを下から見た石原少年は愕然としたらしい。
こんなふざけた絵を描いて、余裕ぶっこいて戦争をする国に、日本が勝てるわけが無いって。なぜかその発言が印象深かった。
その後、ノーと言える日本につながるのだがね。
29 名前:匿名さん:2023/08/10 18:34
>>26
祖父は上海にいたそうで、
良いところだったと言ってた。
祖父の死後
祖母は上海に行ってみたが
良くなかったそうだ。
30 名前:匿名さん:2023/08/10 18:45
父は10代後半、母は10代半ばで終戦を迎えました。
母からは、女学校時代は動員で工場で働き勉強できなかった話や、
空襲で家が焼かれた話はよく聞きました。
父は学徒動員があった年代ですが、理系で後回りになり、その間に終戦になったようです。
戦争の話は父からは聞いたことがないです。
31 名前:匿名さん:2023/08/10 18:57
祖父は戦時中上海にいたけど戦争の話は一切聞かなかった。帰国して東京から田舎に疎開したから空襲などは知らない。叔父は一人戦死していて哀しい話も聞いている。
義母の生家は台湾で事業をしてて敗戦し全てをおいて引き上げて事業は台湾人に引き継がれていると思う。

白人侵略からアジアを守る為に闘っただろうけどその為の統治は植民地として苦しんだ現地の人もいて日本を許さない人もいる。日本人も原爆で民間人が大量に殺され、中国やソ連からも酷い虐殺を受けている。

インスタで被爆者のインタビューを見て、自分が知る歴史と違うことに驚いたり、ルーズベルトに騙されてやらなくてもよかった原爆投下をした、日本は防衛戦争で、侵略戦争をしたのは米国だというアメリカ人もネットで発信してくれている。
語り部はしんでも今はネットに色々残る。
32 名前:匿名さん:2023/08/10 18:59
>>27
戦地の話ではないのね。
そういう話、心の整理がつかず、なかなか口にできなかったみたいね。
33 名前:匿名さん:2023/08/10 19:08
>>32
27の話を読んで戦地の話ではないのねっていう感想が不思議な気が。
原爆の落ちた後の広島の話だよね
34 名前:匿名さん:2023/08/10 19:27
今は亡き実母が、アメリカ兵からチョコレートをもらったと話してたのを覚えている。
アメリカ兵、優しかったみたい。
35 名前:匿名さん:2023/08/10 19:28
>>33
>しょっちゅう聞いたし55歳なので割りと戦争は身近な話だった。
繁華街行けば破れた軍服着て片手片脚の兵隊さんが匍匐前進で空き缶を手で突きながらお金を乞うのもあった。

こんなのは日本中であったことですよ。
広島限定ではないです。
36 名前:匿名さん:2023/08/10 19:32
>>35
原爆資料館の近くに住んでたと書いてあるやん
37 名前:匿名さん:2023/08/10 19:34
>>36
書いてあるね、
でも、エピソードは日本中どこででもあった光景しか書かれてない。
冒頭に持ってきてるということは、それが一番印象強い話だったわけですよね。
広島語るなら、もっと辛いはなしもありますよね。
38 名前:匿名さん:2023/08/10 19:47
>>33
どちらにしても戦地の話ではないよ
39 名前:匿名さん:2023/08/10 19:57
父方の祖父はあまり戦争の話はしない人だった。
母方の祖父はシベリア抑留されていたと、政府から補償が出た時に話してくれた。
40 名前:匿名さん:2023/08/10 20:00
>>37
そんな悲惨な話限定のスレだった?
暮らしとかってあるよ
41 名前:匿名さん:2023/08/10 20:01
>>38
攻撃のあったところは戦地にされてしまったのかと思った。
42 名前:匿名さん:2023/08/10 20:08
父は満州生まれ。
満州の状況が悪くなってきたため
祖母は当時0歳の赤ちゃんだった父と、3歳の伯父を連れて終戦前に日本行きの船に乗ろうとしていた。
しかし船には大人1人に付き子供1人までと言われてしまい途方にくれていて、赤ちゃんの父を捨てようと思っていたとの事。
そこに、偶然にも戦死した祖父の弟と出会い、2人とも連れて帰ってこられた。
という話をききました。
坊主にして父のオムツを服の下に巻いて帰ってきたそうです。
43 名前:匿名さん:2023/08/10 20:10
結構父が歳いってから話したなかで
衝撃的だったのは、
祖父が駅舎で捨て子を拾ってきた。
そのとき、父を含めて子供が7人。
祖父は当時の国鉄の職員だったが、中卒で
平だったので、給与はしれたもの。
でも、ちょうど、祖母が一番下の子を産んだばかりで
母乳がでるので、子供7人も8人もいっしょって言って、
育てたそうだ。
長男の父は、あ~また、貧乏になるって思ったって。
それから数年たったとき、近所の人が訪ねてきて、
「お宅、子だくさんなのに、どこの誰かわからない子供
ひきとって・・・。隣の村で子供が出来ない夫婦が、子供をほしがっているんだが、
そこにあげたらどうだ?」と言ってきたそう。
そのとき父は、隣の部屋で話を聞いていたそう。
すると、祖父が「うちには人様にあげるような子供なんていないよ。
帰ってくれ!」って追い返したって。
その一番下の弟っていうのが、すごくいい子だったそうだ。
海に行っては貝をひろってきては、「味噌汁の具にしておくれ」と
祖母(母親?)に渡すんだって。
でも、ある日、突然いなくなったって。
祖父母が必死に探したけど、見つからなかった。
祖母はショックで寝込んだそうだ。
この当時の戸籍がどうなっていたのか、わからないけど、
父親が亡くなったとき取り寄せた祖父母の戸籍にも入ってなかった。
生きていても無国籍になっていたかも。ま、それは戦後、いろいろな手段で
戸籍を取ることは出来たと思うけど。
44 名前:匿名さん:2023/08/10 22:28
戦時中、母が住んでいるところでハンセン病患者がでて、
そこの家族がその病人を倉に閉じ込めたって。
でも、家族もろとも、村八分みたいになっていたらしい。
母の実家って、大きな農家で何人も人を使っていて、
戦時中も食料には困らなかったそうで、
祖母に当たる人が情が深い人で、その蔵に、食べ物を
届けて面倒を看ていたらしい。
戦争が終わって少ししたら、その人亡くなったらしいんだけど、
その家族にとって、母の実家は恩人の家にあたり、
○○家に決して足を向けて寝てはいけないって、その家では伝えていたらしい。
母が高校に入ったとき、同じクラスにその家の子がいて、教えてくれたって。

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