NO.7501539
キリスト教の学校に子供が通う人
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0 名前:匿名さん:2019/06/01 01:42
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全然熱心でない仏教徒です。子供がキリスト教の中高に通っています。
親の会でホームレスに炊き出しの奉仕や中古衣料の提供、子供のクリスマス会でケーキを焼いたり、巻き寿司やサンドイッチなんかのパーティーの手伝いとかもあります。
実は虚しいです。
ホームレスなんかに食事を出しても別に何もならないし何か変わるわけじゃないし。
この間はおいジャガイモ固いぞ、こら!と言われ腹が立ちました。
子供(中高生)にあれこれ提供すると素直に喜んでもらえるのはなんだか張り合いがあるのですが、その次の瞬間しらけます。
キリスト教の勉強会というのもあって、親の会の人は月に2度出席しないといけないのですが
何もかも外国の話で一つもピンと来ない。
何か苦難があったり心に悩みを抱えることがあったら、何か自分にとってヒントになるかも
知れないと思って始めましたが、いざ自分で苦難や悩みを抱えてみると神どころか仏すら空気で
何も変わらないし希望の光も射して来ないどころか、超現実的で寒々しい思いしか残りませんでした。
泣いても叫んでも亡くなった人は蘇りもしない、何もメッセージを送ってきたりもしない。
当然幽霊も出ません。何の現象も起こりません。
心の在り方を説いて下さるのですが、何も響きませんでした。
子供の学校の親の会ももうやめたほうがいいでしょうか。人に聞くようなことじゃないけど。
親の勉強会の時に「神様のお導きで娘が結婚できました。」とか「(超難関)大学に合格をいただいたのは神様のお導きです。」とか聞くと、あやかりたいなと思う気持ちと、また自慢かという気になってしまいます。
もう辞めたい。でもやめたら知り合いすら失くしてしまう(やめたらどういうわけか一切
話もしてくれなくなります。)と思うと抜けにくいです。
炊き出しやパーティーが苦痛でやめた、逃げたと思われるのは心外です。神様を信じてないだけ。
キリスト教じゃないのにキリスト教の学校に子供を行かせて、こういう親の会に入っている方、どうですか。
真剣に考えるほどのことではないのでしょうか。
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1 名前:匿名さん:2019/06/01 02:50
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えー、それは学校によるんでしょうね。もしかしてカトリック?
うちの娘の学校はプロテスタントで、炊き出しとかのボランティアは生徒の希望者でありました。親はやりません。
神様のお陰でなんて言わなかったし。
保護者のための聖書を勉強する会みたいなのが月に一回あって、いろんな人の話を聞いたり、先生が美術に詳しいので海外のキリスト教絵画の見方についてレクチャーがあったり、なかなか為になりました。
キリスト教に入信する必要は特になく、毎日生徒は礼拝があって賛美歌を歌ったりしますが、心を落ち着ける時間として卒業した後も懐かしがっています。
私はPTA役員もやって、バザーなんかも頑張って結構楽しかった。
学校行事が苦痛だったら無理に参加しなくていいんじゃないですか?中高は親の出番はあまりないし。
PTAは、楽しかったですが、大学受験は浪人した人も多くてそれ以降は親の付き合いはあまりなくなってしまいました。
私は小学校時代のママ友と未だに付き合いが続いています。
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2 名前:匿名さん:2019/06/01 04:42
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キリスト教関係の学校ばかり関係あったけど、そんなに大変な事は無かった。確かに熱心な人は、OB親としてイベント前には毎日活動していたけど楽しそうだったし、あくまでも希望者のみだよ。
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3 名前:匿名さん:2019/06/01 06:42
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>>親の勉強会の時に「神様のお導きで娘が結婚できました。」とか「(超難関)大学に合格をいただいたのは神様のお導きです。」とか聞くと、あやかりたいなと思う気持ちと、また自慢かという気になってしまいます。
神様の…って聞くと「何言ってるの?」って思う。
特に受験は、本人が努力したからだろ!って思うよ。
あやかりたいとか自慢かって感じる主さんは、私より純粋なんだろうな。
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4 名前:匿名さん:2019/06/01 08:31
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私は神も仏も信じません
あれは信じる者は救われるって言葉がぴったりなものだと思ってます
神様のおかげで受かったなんて聞いた日には、もう新興宗教となにも変わらない
子供の努力と運だと思う
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5 名前:匿名さん:2019/06/01 08:35
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それはその学校に通わせるためのお勤めですから
あきらめて無我の境地でお勤めください
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6 名前:匿名さん:2019/06/01 09:13
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キリスト教とは関わりのない生活を送っているけど、友人の影響で時々礼拝に行ったりする。
選べるなら活動を控えたらどうかな。
無理することはないと思うよ。
やめたら一切 話もしてくれなくなるというのは、不満に思いつつ我慢している人が多いのかもね。
ホームレスは変わった方がほとんどなんだろうね。
気持ちのいい関わりというのは期待できない。
炊き出しは、食事提供というだけでなく、その人たちと関わりを持つ(会話するということでもなく)という意味で、世の中から見捨てられていないという、長い目で見た時のメッセージになっているんじゃないかな
その場のやりがいのような自分への見返りを期待するのはボランティアじゃないかもしれない。
>「神様のお導きで娘が結婚できました。」「(超難関)大学に合格をいただいたのは神様のお導きです。」
たしかに自慢ぽい(笑)。神様も苦笑かも。
街の教会では「今日も健康で笑顔でいられたことに感謝」「紫陽花を見て美しいと思えることがありがたい」みたいな、日常の中の感謝が多かったよ。
>特に受験は、本人が努力したからだろ!
たぶん、勉強というものに出会って、進学したい学校が見つかって、頑張ることができて、合格した、
という一連の流れに乗ることができた、そんな意味の「神様のおかげ」だと思う。
日本風に言うと、「ご縁に感謝」かな。
辛い時に聖書や説教の言葉に助けられたかもしれないしね。
>何も変わらないし希望の光も射して来ない
変わらない日常が送れることが、感謝に値するんだと思う。
苦しみがあった時、解決してくれるわけでも奇跡を起こしてくれるわけでもないけれど、
聖書の言葉が、ただ側に寄り添ってくれる感じはするよ。
遠藤周作の本に、そんなイメージのイエス様が書かれていたような(うろ覚え)。
あとは、牧師にもよるのかも。いいお話が聞ける牧師さんも苦手な牧師さんもいた。
>亡くなった人は蘇りもしない
身近な方が亡くなったのかな。嘆く気持ちになれるほどよい関係を持てていたという、感謝することでもあるのかも。
私は親がなくなった時、晩年は思うところが多かったからか、純粋に悲しむことはできなかったよ。
幽霊でいいから会いたい、というのはすごくわかるよ。
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7 名前:匿名さん:2019/06/01 09:39
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それって、新興宗教系の学校?
純粋なキリスト教の学校って合格やら何やらを神様とは結びつけるような言い方しないと思うけど。
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8 名前:匿名さん:2019/06/01 09:43
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>>7
保護者が言ったんじゃない?
礼拝の時に、参加した人から何人かが、みんなの前でお祈りと感謝捧げる時間がある。
なんていうのか知らないけど。
「今週はこのようなことに感謝し、イエス様の御名によってお祈りを捧げます、アーメン」みたいな。
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9 名前:匿名さん:2019/06/01 09:44
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知り合いがいなくなることでやめることを躊躇してるのなら、仕事と捉えてやったらどうですか?
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10 名前:匿名さん:2019/06/01 09:49
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もう10年くらい前かな。
主人がクリスチャンで、私もたまに礼拝にいってたんだけど、牧師のお子さんが小学生で、学校の長距離走大会に向けて、毎日(朝、夕)、近所を走ってました。教会がうちの近くだから、よく走る姿を見かけました。
ある日、礼拝に行くとその子が私に「初めて入賞できました。七位でした。」と報告してくれたから、「おめでとう。良かったね。毎日、頑張って練習したからだね。」と言ったら、その子は「はい。」と言ってくれたんだけど、近くでやり取り見てた牧師さんは微妙な顔してた。
家に帰って主人に言ったら「そういうときは、神様がついていてくださったんだね。と言わないと。」と言われて、なんか微妙な心境になった事があります。
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11 名前:匿名さん:2019/06/01 11:07
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空気的な存在感しかない事に不満な人は、本格的なボランティアに入り込んで汗を流した方がよくないですか?
神に使える人達は、神より目立つ事は駄目で静かに見守っていなくてはいけないのでは?
はっきりとした確信の意見も求めも、避けられたと思いましたよ。
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