NO.7973211
実父との心温まる思い出聞かせてください
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0 名前:匿名さん:2019/11/23 20:59
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「ちゃぶ台ひっくり返すスレ」を読んでいたら、いろんな父親がいるんだなあ、
こういう人が私の父親だったらよかったのに、と心から羨ましく感じてしまいました。
自分の親は取り替えられない。当然なんだけど。
私は自分の父親が母親と同じくらい嫌いで実家にも帰っていないです。
かなりややこしい事情があり、奇特な実家なので。
でも、こういう場所で皆さんのご自身の実父との思い出や
実父への優しい思い、実父から皆さんへの優しさあふれるエピソード、
そういうのを読ませてもらって所謂少女みたいに、妄想を膨らませてみたい
と思いました。50代の婆ですが。
私の実父は人間として「?」な人です。まだ生きています。早くいってほしいと高校生くらいから思っていますが今も残念ながら生きています。
(そして、これは別件ですが実母も厄介な人間です)
学生のころから、友達からお父さんとの楽しそうな話を聞いても、私は「へえ
よかったね」と相槌を打つだけで、決して自分の父親の話はできませんでした。
友達のお父さんの話を見聞きしこういうお父さん、厳しそうだけど
きっと素敵なんだろうなと、子供ながら
考えていました。うちの家とまったく別世界なので。まあ、うちの家族が「異常」なので
そういう中で育った私はやっぱり考え方が偏っているし、自分自身を殺さないとそこで
住み続けられなかった、非常に歪んで育ちました。
なので幼少の思い出はなぜか、楽しかったことは思い出されず、
つらく悲しいことばかりが残っています。小学二年生のころから、布団の中で
毎晩涙が出て一人しくしくと泣きながら寝付いていました。(私の部屋は離れにあったので
一人で布団に入り泣いていても誰も気が付きません)
私には一生絶対に手に入らないものだとうすうす感じとり、自分の未来を悲観していたんだと
今思います。明るい気持ちで寝付いたことはあまりなく、泣きながら寝付いていました。
親は知らなかったと思います。(気づいてくれるはずもないと当時から感じていたし)
暗すぎてすみません! !レスつかないかもしれませんが、よかったら皆さんのお父さんとの
温かくほのぼのできるような思い出話を聞かせてください。
私の一生手に入らない憧れなので、ここで「昇華」させたいです。
※もちろん、私のような実父をお持ちの方からのスレもお待ちしています。
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1 名前:匿名さん:2019/11/23 21:02
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「奇特」には 2つの意味があります。1つ目は、「行いや心掛けが優れていて、称賛に値する様子のこと」です。2つ目は、「非常に珍しく、不思議なこと」という意味です。
その中でも、「奇特」は、「行いや心掛けが優れていて、称賛に値する様子のこと」という意味で用いられることが一般的です。現在では、後者の意味で用いられることはほとんどありません。
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2 名前:主:2019/11/23 21:18
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>>1
ご指摘ありがとうございます。
「下衆」と間違えました。
(奇特という前半の言葉の意味とは正反対な人間です)
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3 名前:匿名さん:2019/11/23 21:29
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ウチも両親ともに虐待親の毒親だったのであったかエピソードが読めたら嬉しいです。
体験談やエピソードが寄せられると良いですね。
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4 名前:匿名さん:2019/11/23 21:31
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親のこと自慢する話ならあるよ。
だけど、一番さんみたいなのがいるとなると怖い。
一体なんの?別に正しい言葉で言うだけが良いわけじゃ無いよね。
そう言う事指摘して、お山の大将気取ってるのかな。
やな感じ。
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5 名前:匿名さん:2019/11/23 21:36
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>>4
自慢したらいいんじゃない?
主さんはそういう話が聞きたいみたいだし。
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6 名前:匿名さん:2019/11/23 21:37
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私の父は自分の考えを説明するのが苦手。
生育のせいもあるのか、とにかく見下し・意地悪発言が多く、なぜ叱られるのかもわからず、関わるたびに傷ついていたものです。
それが私も家庭を持って、弱ってきた両親の世話をするようになると、それなりに愛情を感じるようになりました。
ふと父から大人としての対等な目を向けられたり、見直したような表情を見たりすると、ドキリとするほど誇らしく感じました。
錯乱したときの言葉には、飾る余裕がないだけに誠実で仕事熱心で、私の母である妻への愛慕が読み取れました。
亡くなってから何年も経ちますが、ふと自分の中に父の存在を感じることがあり、それもまた善しと思えるようになりました。
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7 名前:匿名さん:2019/11/23 21:46
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ファザコンきもいからファザコンやめた方がいい。
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8 名前:匿名さん:2019/11/23 21:51
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>>4
1番さんじゃないけど、言葉は正しく使った方がよいでしょ??指摘するとお山の大将になっちゃうの?
別にこんなことで鼻高くしてる訳でもないと思うけどな。勉強になったわーって読み飛ばせば良いのに。
心温まるエピソードはね、小学低学年くらいまで酔っぱらうと子どもを腕枕で寝かせたがった。ある日お腹が痛いと言ったら「これが本当の手当てだ良くなるぞ」と言って大きな手をお腹に乗せてくれて、本当にポカポカして治ったのよね。
お父さんの手は大きいなって思った。
でも、その後はアルコール依存症のどうしょもない親父でした。アルコールで体悪くして早死にしたけど、生きてたらものすごく迷惑かけられたと思う。早死にが最大の子ども孝行だったな。
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9 名前:匿名さん:2019/11/23 22:07
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私の父はスパルタで、
特に食事中の姿勢(和室で正座です)や
箸の上げ下げに厳しく、
少しでも身じろぎするとその手や足を
竹製の定規でピシャリと打たれました。
武士の家か!?と思うくらい時代錯誤も甚だしい父でした。
叱られ過ぎた日は母親がこっそりフォローしてくれたけど、
それでも父の事を尊敬して誇りに思っていたらしく、
私の味方にはなってくれませんでした。
私が15の時に父は亡くなり、私は18で家を出て県外で
独り暮らしをしました。
母は今でも独りです。父のお墓に入りたいからって。
今でも思うのは、もし父が生きていたら今の私はいないだろうって事です。
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10 名前:匿名さん:2019/11/23 22:13
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父はとても厳しい人でした。
特に長女の私と長男の弟にはほんと、スパルタでした。
長男はいつも父に叱られて庭の木に縛り付けられていました。大泣きの弟に隣のおばちゃんが「勘弁したって!」と父に懇願し世間体から渋々放してあげるという感じ。
私もヘマをしてしまった時にはクモやネズミが出る納屋に何度も閉じ込められました。
そんな状況にずっと我慢していたのですが、中2の時、
思い余って家を出ました。
父に支配されるくらいならたとえ世間の底辺でもいいから自分で生きて行きたいと思って。
父は私を探さないと思ってたんです。
思い通りにならない娘なんてきっといらないだろうから。
そして、世間体をとても気にする父だから、自分の娘が家出したなんて事を認めない筈だと思ってました。
でも、探されてしまいました。
朝、私がいない事がわかったらすぐに警察に捜索願いを出したそうです。もちろん学校にも報告。
捜索願いで家出の可能性って申し出て近隣の交通機関に情報提供してもらって私の足取りを追いかけたらしい。
で、足取りを追っかけられた私は、その日のうちに父に捕まりました。
私を捕まえた時、父の目に涙が光っていた事を今でも覚えています。
もう40年以上前の話です。
何故父が私や弟にあれほど厳しかったのか、今では少し分かる気もします。
ちなみに、私には厳しかった父ですが、例に漏れず孫には甘いので、我が子たちはおじいちゃんが大好きみたいです。
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11 名前:匿名さん:2019/11/23 22:24
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みんな長いね。
読めないくらい、自分の感覚としては自分のは気持ち悪い。
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12 名前:匿名さん:2019/11/23 22:32
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すごい私好きのようで、
高校の部活が7時すぎると犬と一緒に部室棟の前で立って待ってました。
家と学校は徒歩10分の距離で心配はなかったんですけどね。
その帰りに、友達の分のジュースや肉まんをよくかってれました。
いまでも私の友達から父は(名前)ちゃんとよばれてます。
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13 名前:匿名さん:2019/11/23 23:37
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当該スレで、皿を投げると書いた者です。
乱暴横暴だった父に泣かされていた母でしたが
数年前、ふと父が
「子供を3人も生んでくれたことには感謝している」と言っていたのを初めて聞いて
母に対してそう思ってくれていたことが嬉しく
私自身にも、存在していてよかったんだと、安堵した思いがありました。
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14 名前:匿名さん:2019/11/23 23:40
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私の父は、私が妊娠中に実家にお世話になっていた時、タクシーの運転手だったので仕事して夜中に帰って来たのにも関わらず、脚がだるくて眠れないって言うとマッサージしてくれました。
そしたらすーっと眠れた。
優しいお父さん大好きだったよ。
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15 名前:匿名さん:2019/11/24 07:22
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私の父は愛情を直接的に表現できない人でした。
性格もひねくれてたし、その割に的外れなことを言い出したりするし。
テレビは毒だとNHKしか見せてくれず、当時友達との会話にもついていけない私は
はっきり言って父のことは好きではありませんでした。
高校生の時、有名な人のピアノリサイタルのチケットが手に入ったから
お母さんと一緒に行ってくるか?とに二枚のチケットを渡されました。
じゃあ、と母と二人で行ったのですが席について見ると隣の席が空いてる。
隣の人、まだ来ないね〜と母と話してたら
なんと隣に父が座ったのです。
???と思ううちにリサイタルが始まり、なんでこんなことをしたのか聞けず。
私も天邪鬼なのでそのまま何も聞かずで帰りにみんなで外食して帰りました。
亡くなったのでもう聞けませんが、たぶんみんなで一緒に行こうと言えなかったのでしょう。
今となっては微笑ましいエピソードとなってます。
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16 名前:匿名さん:2019/11/24 09:15
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私は、子供の頃に母から私が生まれたときの父親の様子を「なんだ、女か」と言われたと何度も聞いていたので、
父は私の誕生を喜んでいないんだとずっと思っていました。
高校生の秋、文化祭で日曜日に登校していたんだけど、帰りに最寄り駅で父が待っていたときがあったので、「どうしたの?」と言っても「いや、別に。ついでだったから」と。
後から母が、「今日、男の子から電話があったから心配して迎えにいった」と聞いて、
その時は「ふぅん」くらいしか感じなかったけど、あとから考えると「娘を心配する父親だったんだ」「私はいらない子じゃないんだ」と少しうれしかった。
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17 名前:匿名さん:2019/11/24 12:47
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外交路の船乗りだった父。
私が生まれた時、母は「ジョジ ウマレタ」と電報を打ちました。
電報を受け取った父は「ジョージ ウマレタ」と読み間違え、
「おぉ、男の子でジョージと名付けたのか」と乗組員全員に
一杯おごったと・・・。男の子だ・・と喜々として帰宅。
おむつ替えまで男の子だと思っていたらしい。
母がおむつを替えるさまを写真に撮ろうとみまがえていたら、
おむつが外れて・・・「え?女の子?」と。
「え?だから、女児産まれた」と電報したでしょ?と母。
「ジョージかと思った…」
早とちりが多い父でした。
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18 名前:匿名さん:2019/11/24 13:34
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父親は男の子を欲しがる傾向にあるのかね。
私の父親も私が女でがっかりしたらしい、さらに2番目も女でその時は病院にも来なかったらしい。
父親の姉の子は3人男の子で、自分の子より可愛がってたかも。
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