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プー佳子ちゃん、やっと就職【嘱託テレワークのみ】
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38 名前:匿名さん:2021/05/01 14:10
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雅子様はマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ11年生(日本の高校2年生に相当)として転入学し2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属した。High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が「米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞」し在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。
同年、ハーバード大学経済学部に入学。国際経済学専攻。ハーバード大学のほかイェール大学、プリンストン大学などアイビー・リーグ校を受験したが、「日本で就職するには名前の通った大学がいい」と考え進学した。
在学中は、心身障害児の運動指導[12]やフランス語のサークルに参加した。また、1学次時に日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサエティー)を自ら創立し、1年次の時に書記を担当、2年次で副会長、3年次には会長を務める。同大学のライシャワー教授などの著名人を招待しての講演会、浮世絵や能の紹介、黒澤明監督作品などの日本映画上映、習字・折り紙の紹介、日本食の試食会、ダンスパーティーなど日本文化を紹介するイベントを企画していた。さらに学生評議会の広報担当もしゴードン教授の助手として日本現代史関係の資料研究を手がける。1年次の夏休みにはドイツのゲーテ・インスティチュートで2か月滞在しドイツ語の特訓をし[13]、2年の夏休みにはフランスのグルノーブル大学のフランス語夏期講座に参加するなど外国語の活動も活発だった。
1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する。専攻は数理経済学。卒業論文『輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』で成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した。
1985年(昭和60年)の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[15]。
1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)の3学年に外部学士入学する。100名中3名の合格であった。1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された。